LAPUAN KANKURIT
「ラプアの織り手たち」を意味するラプアン カンクリ。その名の通り、フィンランドの西部にある人口15,000人ほどの小さな町、ラプアに位置します。
辺り一面が真っ白な雪に覆われる長い冬と全てが輝く一瞬の夢のような夏。
そんな厳しいながらも美しい自然環境で、ラプアン カンクリのテキスタイルは日々織られています。

 現在の経営者、エスコ・ヒェルトはテキスタイルの家業を引き継いで4代目。誕生秘話は今から約100年前まで遡ります。ラプアは昔から小さな町工場がたくさんあり、木工、テキスタイルなどの手仕事が盛んでした。

 物資がなく、一般家庭で毛糸や麻が作られていた時代に、
エスコの曾祖父、ユホ・アンナラが廃材と自分で紡いだ毛糸でフェルトブーツを生産し始めました。

 その後、 息子や兄弟たちが事業を継ぎ、クリーニング業や毛布の製造など、
時代のニーズに合わせて形を変えていきます。
「ラプアン カンクリ」という名の会社が設立したのは1973年のこと。
エスコの父がジャガード機を導入し、タペストリーの生産を開始。エスコのリネン生産の専門知識に、パートナーのヤーナのマーケティング力が加わって
国際的に名高いテキスタイルブランドに飛躍しました。

そして現在、100年の間に培った専門性を生かし、暮らしに寄り添うようなテキスタイルをラプアから世界に届けています。


ラブアン カンプリ 誕生まで

 エスコの父、ユハ・ヒェルトは15歳で祖父が経営するヴァリクトモ(Värikutomo)に就職します。現場で働きながらあらゆるノウハウを身につけ、のちに生産マネージャーに就任し、現場を任されることに。ヴァリクトモは時に200名もの従業員を抱える大きな織り工場でした。 ウールを紡ぐところから手がけ、既にジャガード織りを導入し、軍で使用するブランケットを主に製造していました。そこで長く働いたユハは、周りからのサポートもあり、独立に至ります。小さな織り工場は“Lapuan Kankurit(ラプアの織り手の意)”という名が付けられました。フィンランドの伝統であるタペストリーは、これまで手で織られていたので、ジャガード機を使って生産する会社は皆無だったのだとか。需要はあるが、生産者がいないことにユハは目をつけました。「これからの時代は、規模は小さくても、専門的な技術に専念することが大切であることを父は悟ったのだ」とエスコは考えます。そしてそれは今でも変わらず続く精神でもあります。

父から受け継ぐクラフツマンシップ

 1990年代、父から息子へバトンが渡されることになります。エスコと15歳の時からずっと一緒のヤーナも、生産から販売まで、若い頃からラプアン カンクリを手伝ってきました。エスコが大学でテキスタイルの技術を学び、ラプアに帰ってくることになった90年代のフィンランドは不況で、何か新しいことを発案する必要がありました。ヤーナが市場調査をしたところ、人々がフィンランド製の麻の商品を使いたがっていることがわかりました。タンペラという会社が倒産して以来、ジャガード織りで麻の製品を作る会社はなかったので、エスコが始めることになりました。当時7名だった従業員の数も現在では20名に成長しますが、まだまだ小さい工場であることには変わりありません。ただ、小さな工場だからこそできることがあると誇りがあります。例えば、麻の糸は切れやすく、織るのも難しい素材。糸が切れると、必ず人の手が必要になってきます。機械織りといえども、柄を織り上げるジャガード織りは織るスピードも決して速くなく、大量生産には正直向きません。端の折り方も特殊なので、細心の注意が必要です。また、オリジナルの色に染めた糸から製品を織り上げることにもこだわり、手間をかけて特別なプロダクトを作り出しているのです。また小さな工場は世の中の変化に柔軟に対応でき、それが経営が長続きする秘訣なのだといいます。